女帝の100年後












本人の画像は使えないので、直接関係ないが、画像は引用した聖句。

僕はユーミンのファンだ。
正確に言えば、多くの「通」な音楽ファンの方々がそうであるように、キャラメルママがバックを務めていたころの、1970年代の荒井由実の大ファンだ。

僕は1990年代が青春だった世代だが、高校時代にふれたそれらの音楽は、間違いなく自分の音楽観と、人生を変えてしまった。(そして、ユーミン直系のアーティストである熊谷幸子師匠の音楽にワンツーパンチを食らった。これは90年代世代の特権だったかもしれない。)

親しい友人は、僕が、
「自分の中では70年代のユーミンはLed Zeppelinよりも上」
と発言しているのをきっと聞いたことがあるだろう()

それっくらいの思い入れだ。


ずっと昔からユーミンの全時代のアルバムを揃えたいと思っているのだけれど、貧乏バンドマンの皮肉で、お小遣い事情がそれを許さない。
お小遣いの優先順序から言えば、まずは鈴木茂先生のアルバムを全部揃えたい。

(どちらも、ストリーミングやデジタルストアでは聴けないことが多いことをことわっておく。)


話題がそれた。

今言ったように、僕がユーミンのファンであることを踏まえて。


“100年後も聞かれる音楽を ユーミンが語る老い、孤独、未来



ポータルサイトに大きく掲載されたこのインタビュー記事はきっとものすごく多くの人々の目に触れているだろう。

そして、もちろんその内容には、非常にインスパイアされ、感銘を受けている。


けれども、逆の意味での感慨も覚えている。

「詠み人知らずになりたい」「DNAに組み込まれるくらいに」
そう語るユーミンの言葉に、違和感を覚える人もきっといるのではないか。
(「そのためにプロモーションもライブも一生懸命にやる」、というくだりとか)


たとえば、ロックミュージシャンや、
ブルーズミュージシャン、ゴスペルミュージシャン、
そして現代のデジタルの海に泳ぐ数知れぬ世界中のインディーアーティストたちは、
きっとこのユーミンの談話について、的外れな違和感を覚えるに違いない。

かく言う僕もそう思っている。


大袈裟に言えば、
このユーミンの談話は、まるで昔の王様や皇帝が、
自分の覇業や栄光が永遠に続くよう、
不老不死を願うのと同じようなニュアンスを感じる。

きっとそれは、権力や栄光を手にした人間が、
大昔から感じてきた願いであることに違いない。
時代や場所によって形は変わっても、
人間というのはたぶん、そういうものだ。

永遠への希求というのか。


もしそれでピラミッドや、古墳や、巨大建造物を作りたいというのなら、
それにもきっと意味はある。

でもおそらく、
上に挙げたような、
たとえばレコードなんてものが存在するまえに生きていたブルーズミュージシャンや、
何百年、何千年とひとつのテーマについて歌い続けてきたゴスペルミュージシャンや、
そしてロック産業が崩壊した後の世界で、現代のデジタルの海に向き合っている数多のインディーロッカーたちは、
たぶんこのことについて、もっと本質的な答えを持っている。


自分も一応、テーマの上では「ゴスペルミュージシャン」のはしくれだ。

永遠。
老い。
死。

そういったことについて、時代のスーパースターが持っている以上に、明確な回答があるのでなければ、
クリスチャンミュージックに意味なんて無い。

だから僕はクリスチャンロックなんてものをやっている。


親しい友人たちの中には、僕が「世界人類のDNAに触れたいと思った」といった趣旨の発言をしているのを聞いたことがある人がいるかもしれない。

たぶんそれが、僕が「クリスチャンミュージック」なんてものに向き合った理由のうちのひとつだ。ほんの、小さなひとつではあるけれど。



DNAってものはわかんない。

でも、愛ってものについて言うのであれば、
きっと、大富豪が与えてくれた大金よりも、
何も持たぬ人がすべてを投げ打ってくれた小さな行為の方が、
きっと最後まで残る。


僕が荒井由実の音楽を好きになった理由。

高校生だった僕が、初めて「ひこうき雲」や「ベルベットイースター」を聴いた時。

僕はそれが、小学生の頃からテレビを通じて嫌というほど聴かされていた「松任谷由実」と(あまりにメジャーだし時代ゆえの照れもあるから曲名の数々は挙げないが)、同じ人だとはとても思えなかった。

そして、そんなふうに感じてしまったからこそ、
今でもこんな形で、あんまし陽の当たらないところでインディーのバンドマンをやっているのかもしれない。
それはわかっている()


皆さんご存知のとおり、ユーミンの母校はミッション系であるので、
母校で撮影されたというこの記事の写真の中に、気の利いた演出というべきか、
聖書の言葉がやっぱり写りこんでいる。

写真を拡大してみるとわかるが、
新約聖書の「フィリピの信徒への手紙」第一章9節および10節だ。
ちなみに新共同訳のバージョンだった。


引用してみよう。きりがいいから11節まで引用してみる。

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」


信じるってことは、やっぱり簡単なことじゃない。
なにかひとつを、本当に信じるってこと。

でもって、神の前にあっては、王様も、乞食も、みんな同じで、何の違いもない、ってことも、たぶん真実だ。

もちろん、ポップの女王だって、その例外ではない。



蛇足だがもうひとつ。

この記事のタイトルは、「100年後も聞かれる音楽を」となっている。

もちろん、クラシックとか、伝統音楽とかはあるけれど、そうではなくて。
最初期の「ロックミュージック」「ポップミュージック」として。

僕はつい最近、Sister Rosetta Tharpeに出会ったばかりだ。
100年ではないけれど、きっかり80年前に録音されたそれらの音楽に、
僕はまるで、現代のアーティストと何にも変わらないくらいに、夢中になっている。

そういう例もある。
だから、言えるんだ。
時を越えるってことは、どういうことなのかって。


もちろん、荒井由実の音楽は、100年だって、200年先だって残ると思うけどね。
それは間違いない。

また、ねがわくば近い将来に、ユーミンのアルバムを全部揃えた上で、ちゃんと思い入れを込めてファンレターを書きたいと思います。

ありがとう。


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